|
|
|
|
|
| DIARY
| FORM
| DESIGN
| MATERIAL
| MAST&SAIL
| ELECTRICITY
| PEOPLE
| |
|
|
|
|
|
東京大学造船工学科を卒業後、ヤマハ発動機(株)にてヨットの開発設計を担当し、1978年のクォータートンカップ世界選手権優勝艇「MAGICIAN」や1982年のパンナムクリッパーカップで活躍の「SUPERWITCH」ほか、数多くのクルージングヨットやカスタムレーサーの開発を行い、フランスのグループ・フィノ設計事務所でもヨット開発に関する経験を積む。
1982年に独立、ツボイヨットなどヨット専門造船所の量産モデルのデザイン及びカスタムデザインを行い1990年のケンウッドカップ総合優勝艇「MATENROW」のデザインも手がける。また、1989年のニッポンチャレンジ始動時からデザインチームに参画し1991〜1995年にはニッポンチャレンジ・チーフデザイナーを務める。 |
|
|
|
|
|
|
|
サンフランシスコ市庁舎にある
ジョージ・クリストファー氏の胸像にはこう刻まれている。 |
|
ビジネス・リーダーから銀行の取締役会長を経て、郡政執行委員、さらには市長へと登りつめたクリストファー氏、そのサンフランシスコに対する貢献が人々から忘れ去られることは決してない。1907年、12月8日、ギリシアのアルカディアで生まれたクリストファー氏は、2才の時にサンフランシスコへ移り住んだ。市内のサウス・オブ・マーケット地区で育ったが、父親の病気のため14才で学校をやめ、11年間、夜学に通って高校の卒業証書と会計学の学士を取得。その後、乳製品事業で成功したのである。政治に積極的に関わるようになったのは、1945年に州監理委員会の委員になってからである。1949年に再選、委員長に就任。1955年には民主党、共和党両党とサンフランシスコにある4つの新聞社全紙の支持を受けて圧倒的勝利で当選を果たした。1959年に再選され、2期目を務めた。クリストファー氏は、サンフランシスコのいたるところにその足跡を残した。ニューヨーク・ジャイアンツを説き伏せその本拠地をサンフランシスコに誘致しただけでなく、市の再生にも尽力した。市長を務めた1956年から1964年までの8年間に、ジャパン・センターをはじめ、裁判所やキャンドルスティック・パーク(サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地)などのさまざまな高層ビル群を建設し、それらは現在の市の景観を形作っている。クリストファー氏は決断することを恐れなかった。「何もしないより、たとえ誤りを犯しても物事を進める方が市民からの評価を得られると信じた。」1959年、クリストファー氏は、世界的に最も有力な人物の1人であるソビエト連邦のニキータ・フルシチョフ首相を手厚く接待して内外の注目を集めた。クリストファー氏の政治的野心はサンフランシスコだけに留まらなかった。リチャード・ニクソン氏とともに共和党内の副知事予備選挙に立候補。1966年には上院議員選に出馬し、さらにロナルド・レーガン氏とともにカリフォルニア州知事の党内選挙に立候補した。ジョージ・クリストファー氏は、清廉潔白な紳士であり、貧困から身を起こした立志伝中の政治家であり、巧みな外交家だった。「その強靭な意志と豪放磊落な精神が市長の職に威厳と尊敬をもたらした。」と前市長のフランク・ジョーダン氏は述べている。
|
|
|
|